越前の歴史と文化に思いを馳せる
織田信長一族発祥の地に鎮座する「越前二の宮劔神社」。 山岳信仰の祖、泰澄大師が作りあげた神社仏閣群など、越前の歴史と文化に思いを馳せてみてください。
劔神社が鎮座している越前町織田は、織田信長公の祖先の故郷として知られ、越前町織田荘の荘官として、また劔神社の神官として神社に仕えてきた由緒ある家柄でした。応永年間、劔神社の神官の子が、時の越前の守護斯波氏にその才能を見出され、尾張の国に派遣され、この際に、苗字は故郷の地名をとって織田を名乗るようになったと云われています。その織田氏は尾張で次第に勢力を伸ばし、守護代を勤めるまでになり、そして時が流れ、信長公の時代には尾張一円を掌握し、更に日本全国に雄飛するまでになりました。
ちなみに織田家の家紋は「織田木瓜紋(五つ木瓜紋)」ですが、劔神社社の 神紋も同じ紋章であり、昔から深いつながりがあることを示しています。
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劔神社が中央に鎮座する織田盆地は、四方を山に囲まれた環境から、霧に包まれることが多く、高台から織田盆地を望むと幻想的な里山の雲海を見ることが出来ます。
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海上安全・大漁など魚魚関係者から篤い信仰を受ける
金刀比羅山宮は、日本海と琵琶湖の沿岸諸国を守護し給う「こんぴらさん」として慕われ、古くから多くの人に親しまれ、広い信仰を集めています。お社は幡ケ山(はたがやま)と呼ばれる小高い山の山頂に鎮座し、静寂な自然に包まれ、パワースポットとしても知られています。海上安全・大漁などを祈る漁業関係者からも篤い信仰を受けていて、御祭神の御神名・大物主大神より大物祈願も増えています。
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越の大徳、泰澄大師ゆかりの寺社仏閣群
泰澄大師は飛鳥時代(7世紀末)、越前国麻生津(現 福井市三十八社町 泰澄寺)に生まれました。
幼いころより神童といわれ、14歳のとき、夢で十一面観音のお告げを受け、故郷の越知山にこもって修行にあけくれるようになりました。
苦行難行の後、ついに仏の教えを悟ったと云われています。
また、長い間、人が足を踏み入れることを許さなかった白山に、はじめて登拝(とはい)したのが泰澄であり、白山信仰の祖、山岳信仰の祖ともいわれます。
白山の開山以来、泰澄の名声は高まり、都に赴き元正天皇の病を祈祷で治したり、大流行した天然痘を鎮めるなど、華々しい活躍をします。
数々の伝説を残し、「越の大徳」と讃えられた泰澄は、767年に越知山で遷化。享年86歳でした。
越知山・越知神社
越知神社(おちじんじゃ)は、越知山の山頂にある神社。
神仏混合の山岳霊場だったといわれ、越の大徳として敬慕されている泰澄大師が修行し、仏の悟りを得られた山として知られています。
越知神社は、泰澄大師が仏像を造り、山頂に社殿を建立して越知山三所大権現と称して祀ったのが始まりと伝えられ、境内には、別山・霊水・千体地蔵尊など、ゆかりの史跡が多く残っています。
また自然豊かなこの越知山は、ブナの原生林など木々深く、清麗なる水が湧き、清浄なる気につつまれています。
好天にもなると、展望台から眼下に周辺の山麓や、街並が見渡せ、遠くは、白山連峰の雄姿が眺望できる風光明媚な観光名所として県内外の人々に親しまれています。
朝日観音福通寺
あさひのお観音さんとして親しまれていて、今から1300年前の奈良時代に、泰澄大師によって開かれたお寺です。
越前町朝日地区の、地名の由来になったとされる、"秘仏である「正観音菩薩立像」が開眼のおり、眉間から朝日のように輝く光を四方に発したという故事が残っており、その寺のある山を朝日山、里の名を朝日村と名づけた"という話が残されています。
この小高い朝日山からは、天気の良い日は、泰澄が開山した白山をみることが出来ます。
幸若舞は、武士道鼓舞の舞曲として多くの戦国武将に愛好され、保護されました。特に織田信長公の愛好ぶりは有名で、桶狭間への出陣する際に「人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻のごとくなり」と幸若舞の「敦盛」を謡い舞ったことはよく知られています。また、豊臣秀吉や徳川家康らも幸若舞を庇護し、江戸時代には幕府の式楽として毎年将軍の前で舞うことが家職となっていました。幸若舞は、申楽(さるがく)などと同様に中世芸能として発達し、約600年の伝統を誇る芸能です。越前町西田中が発祥の地で、室町時代に、桃井直詮(幼名 幸若丸)によって興されたといわれ、その一族は現在の越前町西田中に住居を構え、ここを中心に全国で活躍しました。
幸若音曲(幸若舞)発祥の地の記念碑が、越前町西田中の越前町社会福祉センター朝寿殿の正面玄関横にあります。
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