越前に生まれ、越前に生きた
泰澄大師
TAICHO DAISHI
2017年、白山は開山1300年を迎えました。神々しくそびえ立つ白山は富士山、立山とあわせて日本三名山・日本三霊山に数えられる福井県、石川県、岐阜県にまたがる名峰です。奈良時代の717年、越前の僧・泰澄は2人の弟子臥行者、浄定行者とともに誰も登ることが許されなかった神の山・白山を開山しました。以来、白山は修行の聖地となり、神仏習合の源となり、今なお全国で信仰を集める山岳信仰の礎となりました。
これらの礎を築いた泰澄について1300年を経た今、彼が生涯を通して最もゆかりが深かった地、越前町を中心に足跡を訪ねてみたいと思います。
「泰澄」の生涯
泰澄は、天武天皇11年(682)6月11日、越前国麻生津(現福井市三十八社・泰澄寺)に生まれました。幼少の頃より泥で仏像を作って遊び、他の子どもたちとはきらかに違って育ちました。
ある日、仏教の布教に訪れた高僧が、泰澄を一目見て神童だと見抜き、両親に大事に育てるように伝えました。
14歳になった泰澄は、夢で見たお告げによって導かれ、越知山の修行に通うことになるのです。麻生津から越知山までの片道15km程の道のりを走りに走って夜通し修行を行い、また朝には家に戻るという苦行難行を続けました。
21歳のときには、悟りを開き不思議な霊力を身につけ、その名声は奈良の都にも知れ渡ることとなり、時の朝廷より鎮護国家法師に任命されました。ちょうどその頃、泰澄は山中での厳しい修行の中、遥か遠くに望む白い山に、畏敬の念を抱くようになりました。そしていつしかその白い山に登り、神々に会いたいと強く思うようになっていったのです。
そして36歳のとき、二人の弟子とともに霊峰白山へ登頂を果たし、千日間にも及ぶ厳しい修行を積んだのでした。
やがて55歳のとき、全国で天然痘が大流行し、平城京でも多数の死者が続出していました。その時、聖武天皇より泰澄に勅命が下され、十一面法を修したところ、なんと疫病は数日間で治まったのです。その功績により大和尚の位を授けられ、『泰澄』の名を賜ったのでした。
その後、泰澄は弟子とともに越前はもとより全国各地を歩き、布教活動のほかに病気治療や川に橋をかけ、産業を興し、多くの土地や人々のために尽力しました。
77歳になった泰澄は、白山を下り越知山のふもと大谷寺に帰山し、86歳に大日如来の定印を結び亡くなりました。
現在、大谷寺境内に祀られている国指定文化財の石造九重塔は、泰澄大師の廟所です。
『泰澄和尚伝記』にもとづく
泰澄年表
- 天武天皇11年(682)0歳
- 越前国麻生津にて父・三神安角、母・伊野氏の次男として生まれる。「越の大徳」と名づけられる。
- 持統天皇7年(693)12歳
- 高僧道昭が北陸巡回中に、泰澄をひと目見て神童と告げる。(持統天皇6年ならば11歳)
- 持統天皇9年(695)14歳
- 高僧の夢を見て十一面観音を知り、越知山で修行を始める。(大谷寺では11歳)
- 大宝2年(702)21歳
- 鎮護国家の法師となる。
- 霊亀2年(716)35歳
- 夢に出てきた白山神に白山登頂を促される。
- 養老元年(717)36歳
- 白山で登頂を果たし、千日修行を積む。
- 天平9年(737)56歳
- 十一面観音法により天然痘の流行を鎮め大和尚の位を授かり「泰澄」と改め名乗る。
- 天平宝字2年(758)77歳
- 白山を下山し、越知山に帰山。大谷寺に篭もる。
- 神護景雲元年(767)86歳
- 3月18日大日如来の定印を結び入定した。
泰澄坐像 国(文化庁保管)